この本の中から、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」などはいかがかと。何と言うこともない単純なお話ですが、飢饉も離別も想像すらできないこの時代には有意義かもしれない。
この本は、昭和の日本の童話を集めたものですが、「子供のための童話」の歴史など浅いもの。お子さまがお子さまとして読むことを前提に書かれていたり、子供が読んでもいいとか、ガキが読むべきだとか批評家が思ったものがのっているわけです。だから、割にすなおな表現が多い。
かつて、「本当は怖い」なんとか童話という話が横行していました。筆頭はグリム童話だったか。グリム童話という呼び方からしておかしな話ですが、グリム兄弟が伝承を集めて記録したもの。古くから残る土着の話は、残酷なのが当然。童話だからとか、子供のためだとかいう前提がないわけだし、そもそもその子供にしたって危険から保護、絶縁されていたわけじゃない。物語は常に血塗られていたわけです。
そう言えば、イソップの話も童話にされてしまってますが、あれは寓話。お子さまランチではないので、血を見る時は見るのがあたりまえ。有名な話ですが、「蟻と蝉」を何が何でも「キリギリス」にしたがるおばさんが多いらしくて、閉口するそうです。「夏の間歌っていたのなら、冬の間は踊りなさい」という単純明快な物語が理解できていない。
実は同じこの本には、太宰治の「走れメロス」も載っています。この実に嘘臭いいやらしさに満ち満ちた話は、童話と呼ぶにはあまりにもみじめです。いや、だからこそ教科書にふさわしいのかもしれない。これと同じくらい教科書にふさわしいのが、やはり宮沢賢治の「雨ニモマケズ」でしょう。この二つの話、文章をほめたがる教師や批評家のそばには寄りたくない。できれば2光年くらい離れていたいところです。臭いがうつりそうで。
さて、教科書から離れて太宰の「お伽草紙」を読むと、そのあまりの悲しさに芥川龍之介の「河童」を思い、ほとんど涙が出そうになります。しかし、この二つに涙する人間など少ないでしょう。でも、太宰の本質はこちらの方であってほしい。例え芥川賞のためだけに本を書いていたのだとしても。
宮沢賢治の方はもう少しましです、「雨・・・」さえ除けば。「花鳥図譜七月」は絶品だと思いますが、これも批評家には評判が悪い。残念ながら、この詩は童話とは認められなかったようで、この本には載ってませんが。
グスコーブドリの紹介のはずが、太宰治と宮沢賢治に終始してしまいました。この本には(メロスを無視すれば)いい話がたくさんあります。子供のため、ではなくて、自分のために読むのがいいと思いますよ。
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