●今月の一冊 2007年●
【8月】科学とオカルト 池田清彦
講談社学術文庫 ISBN978-4-06-159802-7 2007/1/10 ¥760

 ごぶさた

 実は8月は一冊も本を読んでおりません。冗談ではなくて。
 緑内障で右目の視力が落ちたまま回復しないので、左目の負担も大きく、仕事の負荷も重くなっている、というわけで。

 今回が最後となります。悪しからずご了承ください。


 科学もオカルトも本質は同じ。客観性をうたっても、しょせん記述は主観でしかありえない。科学は内容を開放し、オカルトは秘密にする、それが唯一の違いだとか。

 科学とは何か。それに対してオカルトとは何か。この問題について、科学史の立場も含めて順番に説き起こしています。

 そもそも、科学というものが現在のような「立派な」ものになり、「立派だ」と見なされるようになったのは、ほんの最近のこと。ニュートンにしても錬金術師にすぎないわけで、理論という知見をどこまで広めたかと言うと、少々難あり。
 ま、他人の理論を排斥することにかけてはけた外れの「実力」を示した人物でもあるし。
 科学が科学であるのは、再現性があると認められるところに限られます。一度しか起きないものについては、そこに科学的な立場とか理論とかいうのは、成立しません。だからこそ、人生とか、生きる意味とか、そんなものに対して科学は無力なわけです。

 知り合いに海洋学をやってる人がいますが、その人と「歴史」と「再現性」についてバカ話をしている時に、「誰かが大きい鰯だけ選んで食べて、その骨を大量に一カ所に捨てていたら、後年発掘した人がそこらには大きな鰯がいっぱいいたのだと思うだろう」なんて言っておきました。「ほんとにやりそうだ」と言われましたが。歴史学とか考古学には、再現性というのはあり得ないわけです。証拠もなし、再現試験もなし。そんなんでホントに科学なんだろうか。

 それに比べて、ソフトウェアエンジニアリングというのは、同じソフトウェアを走らせたら、毎回必ず同じ結果が出る。再現性はばっちり。ただ、何度やっても違うバグを作ってしまうのだけは、再現性がないなあ。

 こんな科学の無力に対して、オカルトというのは「秘技」「秘伝」によって再現性のあるはずの「超能力」「当人にとってだけ自明である結果」が得られるものです。科学性というのを真摯に考えて絶望した時に、宗教、そしてオカルトに走るのも当然の話でしょう。どう見ても怪しげで馬鹿馬鹿しい、と思うのはその外にいるからです。

 同じ著者に次の本もあります。立場は同じで、同じような雰囲気ですが。

池田清彦 やぶにらみ科学論
ちくま新書 ISBN4-480-06140-1 2003/11/10 \700


 完全自由主義者を標榜して、原理主義を否定する立場です。だそうです。

 みんなも歳だから、気をつけようね。では。


【7月】吾輩のご主人 原口緑郎
河出書房 ISBN978-4-309-01821-8 2007/5/30 ¥1800

 天才は猫につくられる、とか。吾輩と言えば当然ネコの話になる。残念ながら漱石は出てこないが、それ以外の明治期の日本人ほかとネコの関わりを集めた、エピソード本。
 しかし、ネコが天才をサポートしてやるわけはない。そんな下世話な世界とは関係のないところで生きているのがネコなのだから。ネコをダシに使わないでいただきたい。そもそも、おっと、俺は今はネコではなかったのだ。

猫に助けてもらったという天才たちは、南方熊楠、稲垣足穂、岡倉天心、茂田井武、熊谷守一、春日部たすく、津高和一、アブラハム・リンカーン、シュヴァイツァー博士。無類の猫好き、自他共に認める猫崇拝、というのは日本人の何人かに過ぎず、それ以外はちょっとした猫とかかわるエピソードがありました、という程度。
 子猫をかわいがったから猫好きで、心の優しい人物だった、というのはあまりに短絡的な見方というものだ。そもそも、子供というのはどんな動物でもかわいらしいと言われている。それが生き残るための戦術だということだ。子猫は言わずもがな、犬でも鳥でも、果ては人間でも。だからね、リンカーンが猫を抱き上げたからって、それで何かが証明されるわけではないのよ。もし猫を無視したとかいう話が残っていたとしたら、それは犬派なのだ、フン。
 自宅に常に何匹も住んでいて、椅子、テーブル、机を占有し、果ては芸術作品をトイレ代わりに使う、そこまで行って初めて猫フリーク、猫あっての天才と言えそうなもの。さすがにそこまでの人物は少ないのだが、それでも確かにかつては存在したのだ。きっと、今でもいるに違いない。将来、同じように天才と呼んでもらえるかどうか、そこまでは知らないけどね。

 ところで、アメリカ人に「おまえはチャイニーズかジャパニーズか」と侮辱された時に、「おまえはドンキーかヤンキーか」とやり返した話は有名だが、それがここでも出てくる岡倉天心。でも、どうせなら、モンキーも入れておいてほしかった。

【6月】再起
ディック・フランシス
北野寿美枝訳 再起
早川書房 ISBN4-15-208779-X 2006/12/15 ¥1500

シッド・ハレーが帰ってきた。

 これで何のことかわかれば、おめでとう、あなたも競馬シリーズのファンの一人です。昨年末に出ていたのに、今頃気づくとは慙愧の至り。しかし、完全にあきらめていたのだから、探すこともなく見つけることもなかった。そういうものですよ。うれしい誤算でした。


6年ぶり。シッド・ハレーが帰ってきた。ディックフランシスが帰ってきたが、菊池光は逝ってしまった。これでは訳も信用なるまいと思ったが、その弟子たる北野寿美枝氏は立派にその役を果たしている。しかし、御年85歳のフランシスが復活させたハレー自身も、恋人ができてずいぶんと涙もろく優しくなったものだ。北野訳は、ちょうどのその時機を得たというべきだろう。

 例によってたちの悪い悪役は、例によって超大物ではなくて身近な小物。金儲けよりも復讐と権力欲に狂った犯人たちを、自己抑制と呼ぶよりもむしろやせ我慢で追い詰めてしまうハレー。めでたく恋人と結婚し、元妻と仲直りし、敵対関係だったデマ新聞と休戦を成立させてしまう。めでたしめでたし。

 さて、これまで紹介した中にはこのシリーズはありませんでした。一言触れたことがあったけれど、ただそれだけ。その理由は、この6年というもの新刊が出ていなかったからです。あまり古いものは紹介しにくいと思ったもので。もちろん、どうにもネタがなくなったら使うつもりはありましたけどねぇ。

 思い起こせば1984年に読み始めたのがシリーズの20番目くらい。年1冊というそのペースを追ってきて、今回のは40番目です。最初に読んだときの衝撃と言ったら。実はさらにさかのぼると、ラジオドラマがあったのを思い出します。野沢那智でしたねぇ、「競馬シリーズと言っても、競馬の話じゃないんだよ、競馬を知らなくても面白い」としてやってましたが。そのシリーズが数年前、年齢と愛妻をなくしたこととで筆を折ったとううわさがながれ、完全にあきらめていたのでした。それが今回の復活です。巻末の解説によれば、評判が悪かったらもう書かない、とか。悪いわけはないし、自信もあるのでしょうから、またぼちぼちと出てくるものと思います。あと15冊、は無理としても。

 主人公が30代半ばから後半、という設定もまた微妙な位置づけで。そこそこ成功した立場にもあこがれが。しかしこちとらぁ50にのったのに、彼らはまだあまり年取らないね。同じ登場人物はめったに出てきません。シッド・ハレーは例外中の例外。だからこそ復活、再起にふさわしい。無条件にお勧めです。

【5月】千里眼事件 長山靖生
平凡社新書 ISBN4-582-85299-8 2005/11/10 ¥720

 これまでにも何度か、似非科学、非科学、偽科学、科学のふりをしただけのあやしげな「お話」についての本を紹介したことがありますが、これもその一種ではあります。ただし、その立場は「啓蒙」ではなくて、「その時の人間の様子」なんですが。


 明治に現れた透視、念写という、当時の科学の最先端にひっかかって、多くの科学者がまきこまれたしまった大騒ぎ。今から見ればあまりのばかばかしさにあきれるばかりだが、当時はふりまわされた心理学者が結局はオカルトに走る有様。
ただし、多くの心ある物理学者は、「肯定・否定できるだけの材料が提供されていないから、それ以上は何も言うことはない」という、ごくもっともな声明を出してコメントを避けている。つまり、科学の対象になり得ないということ。実際、科学的な実験にはほど遠い「公開実験」を繰り返すばかりで、何の再現性も根拠もなかったのだから。

 しかし今でも民間レベルではちっとも変わっていないし、マスコミがいいかげんな記事であおりたてるという構図は全く変わっていない。おっと、一部の科学者がその先棒を担ぐ、というのも同じかもしれない。その情けなさには涙が出るが、けっきょくは「科学者」という名の凡人に過ぎないのだろう。そういう「有識者」や「専門家」をよく見てほしい。どうも、専門外の「専門家」や、畑違いの「科学者」がしゃしゃり出るばかりのような気がしているのだ。

 さて、明治の科学認識がかほどにひどかったかというと、実はそうでもない。一部のマスコミにしても少々あおって騒ぐことはあっても、基本的には「詐欺の一種」「お祭り騒ぎ」「地方ニュース」扱いを出ていない。それを考えると、むしろ現在の方がひどいかもしれない。特にマスコミに見られる「低脳」ぶりは、年々ひどくなっていくと思わざるをえない。それは別に「オカルト」に限らず、あらゆる意味での科学の扱いがそうなのだ。新聞だとその格差はひどいものだと思うけれど、そうでもないですか?

【4月】一神教の闇 安田喜憲
ちくま新書 ISBN4-480-06331-5 2006/11/10 ¥720

 前回のキリスト教布教パンフレットに続いて、今回はアニミズム礼賛新書。やはり、本も過激なほど読んでいておもしろい。それが不愉快なまでになるかどうかは、実は読む側の気分と著者とのすれ違い、先入観で決まってしまう。だから、前回の減点が大きく、今回はそこまでひどくないのは、単に勝手な思いこみによる反感の程度にすぎない。


 日本は美しいアニミズムの国だから、この後の世界を救うためにインドと手を組んで、殺戮の一神教の国々に対抗し、イデオロギーと物欲に堕した中国が反省して正しい国になるのを待とう。

 とまあ、安部晋三が聞いたら喜びそうな国粋主義国家神道を奉った本。ここまでこき下ろしては著者に申し訳ないだろうが、実はこの本の中で他国を批判する態度がちょうどこういう扱いなものだから、それをそのままあてはめるとこうなってしまう。もちろん、現総理大臣君は、アジアよりアメリカが大事だから、アジア諸国民を見下すのは得意だが、大統領には頭を下げる(へーこらする、という意味です)。

 砂漠で生き残るために他者をけ落とす、そういう目的ための一神教の基本的な発想が、世界をますます破壊し消費し続けている。イスラム教のように、宗教のために他者を殺すのに自分を犠牲にするのをいとわないのは、一神教の神が救ってくれるからだ。こんなヨーロッパアメリカ中近東世界に比べて、豊かな水にめぐまれて米作を中心にした東南アジアは、自然の中に神聖を見いだして多くの神を奉るアニミズムの世界である。キリスト教神学がアニミズムを原始的な未開の宗教として見下すのは間違いであり、アニミズムこそ人間がそれらしく生きられる基本なのだ。アニミズムを見下すのは愚かであり、これこそ日本の底に根付いている八百万の神々の世界である。

 他の世界に対する攻撃と見下した態度は、まさにその攻撃している相手の態度そのものではないか、これでは困ってしまう。しかも、根本的な認識違いがあり、足下にも問題がある。話を単純化して盛り上げるためにそうしたと読めるのではないか、好意的にそう考えようとしたが、どうもそうでもないらしい。ここも困った点なのだ。

 キリスト教は一神教で、日本の原始アニミズムは多神教。八百万の神々が住まう日本の自然を見れば、多神教こそ当然だと思う。では、キリスト教というのは一神教と割り切っていいのか。実はまずこの点が危険な思いこみで、一神教というのはきわめて容易に多神教の要素を取り込んでしまう。キリスト崇拝そのものが神聖の分離分割の始まりであり、聖母マリア崇拝、マグララのマリア崇拝、十二信徒の崇拝、そした山ほどいる聖者たち。キリスト教というのは、こういう多神教要素を含んで巨大化していく。一神教というのは本質的に成立し得ないらしい。
 また、これが砂漠に成立した宗教かというと。みな、もとは肥沃な土地だったというのも明らかな話。自然を食いつぶして砂漠化してしまった、そういう意味では当たっていないこともないのだろうが、それは原因と結果が逆だ。

 著者は理学博士(東北大学地理学専攻)、専門は環境考古学、現在のテーマが古代文明の比較研究。宗教が専門ではなさそうだが、主張がとんちんかんになるのはそのせいではなくて、神道にのめり込んだせいではなかろうか。

 自然の中に神聖なものを感じること。特に、夜中、水のそば、静かな中に聞こえてくる人間の活動以外の音を聞いていると、無力感と安心感と開放感と、そして神性を感じいてしまう。逆に不安と危機感が凶暴性をあおるのだとしたら、それは性格の違いか、国民性か、宗教観か。それとも、まるで違う話かな。


【3月】神様の食卓 デイヴィッド・グレゴリー
西田美緒子訳
ランダムハウス講談社 ISBN4-270-10067-2 2006/11/1 ¥680
 サラリーマンは期末から新しい期です。新しい組織になったり、新しい仕事になったり、そんな期待がある人もいるかもしれない。
 サラリーマンじゃなくても、期末から新しい期です。めでたく新しく学校に入るとか、進級するとか、夢と希望に満ちた(きっと)子供たちがいるかもしれない。
 どういうものか、小生は何も変わらないし、子供たちも順調に進級するだけで、平和なこと限りなし。ただ、引退が近づいたと思ったら、何でも世の中定年退職がのびるらしくて、ありがた迷惑もいいところ。

 ひょっとして、もし、今、新たにキリスト教に帰依しようと思っているのなら。
あるいはまた、もし、今、どの宗教でもいいから心の平安を求めているのなら。
こんな本もいいのかもしれない。
 逆にまた、もし、すでに特定の守護天使がいて問題も何もないのなら。
さらにまた、学生時代の宗教学を思い出しては仏教やらいろんな宗教のことを考えているのなら、小生のように。
この本を読んだらそれなりに考えるかもしれない。

 おっと、この先を読む前に、まずはほかの「ごくまっとうな紹介」を読んでおくか、あるいは本そのものを読んでおいてほしい。例えば、
  「BOOK」データベース
  出版社(講談社)からのコメント
  アマゾンのカスタマーレビュー
  などなど

 さて、感想は

 キリスト教の神を自称する人物が、他の宗教に難癖を付けて矛盾をあげつらいこき下ろす。その一方でキリスト教の問題については何も答えずにはぐらかす。相手が間違っているという根拠は、自分が神だから。そして、相手が間違っているから自分が正しくて神である。自己撞着もいいところだが、それに感心して納得してしまう主人公は、そのまま著者の姿だろう。
 実にいやらしい、最低の本だと思うのだが、これを読んで心が洗われると思う人がいるとか、米国内でベストセラーになったとか。まさに、キリスト教徒のための本。

 もっと分かりやすく紹介するならば、これはキリスト教のどっかの宗派の勧誘パンフレットです。いかにも人好きのする人物が、主人公を夕食に招待して、有名な教祖その人だと自己紹介。カウチでなく、食卓で精神分析をしてくれます。
 もちろん、自らの宗派を宣伝するためだから、他の宗派、宗教をおとしめることに何の躊躇も根拠もいりません。対する主人公は、初めこそ懐疑的なふりをしますが、しょせんはパンフレットのこと、たちまち説得されてめでたく勧誘は終わります。

 実は、宗教者のこうした態度というのは、別にキリスト教に限らない話のように思っています。本質的には宗教者というのは信念のあまり攻撃的なのね。攻撃的に見えないとしたら、別のもの、カネとか権力の方に攻撃的なのよ。
 父の葬儀にからんで坊様から話を聞いた時の感想が、実際こんなもんでした。それで完全に仏教浄土真宗大谷派から足を洗ったのよ。その時、附中の(現在の)教師の態度が悪いとかいう話まで出たのはご愛敬。これじゃぁ、お寺が分かっちまうか。もちろん、我らが同窓の坊様は偉い方ですから、こんなことはありません(きっと)。

 キリスト教のこういう基本姿勢に対して、東アジアはアニミズムの世界だから、という何だかよく分からない、というより、無茶苦茶な議論をしてくる本がありましてね、その名も「一神教の闇」。お楽しみに。

【2月】拒税同盟 水木楊
日経ビジネス人文庫 ISBN4-532-19039-8 2001/2/1 ¥552
 何も考えることなく税金として多額の金を天引きされてしまうサラリーマンなのであまり考えたくなかったのだが。しかし、もとをただせば、税金て何なんだ。

税を取る側の堕落にあきれて、確定申告をしないというところから始めたある組織。それまでには周到な準備がある。支払いしないところまでは予定通りだったが、別件逮捕で収監されて、そこにも戦いが。

 税の「支払い」の拒否の物語。犯罪ものに共通する爽快感があるのはあるのだが、それ以上に税金そのものの問題点を思い出させてくれるところがいい。まず、納税ではないというところから、思い入れが違う。あくまでも「シミュレーション小説」ということにしているが、こんなことでもしなければ憂さが晴らせないのも事実。そもそも、既存の権力構造や権威や偉そうな奴や物が大嫌いなものだから、こうした反骨精神に同感しないわけはない。それにしても、やり返すためには、外為法違反を認めて執行猶予付きとはいうものの有罪判決を受けなければならないところが、実に現実的な問題ではある。コンゲームなら何とかして逃亡してしまうだろうに。

 あまり説明してはネタバレになってしまうから詳しくは紹介できないが、とにかく読んでみれば、これが単なるお話ではなくて、本当に起きることであってほしいと思うだろう。

 そもそも税金とは何か。これと暴力団のミカジメ料と何が違うのか。本質的には何の違いもない。前者が勝手に生まれてくる連中の話であるのに対して、後者は一応参加できる建前になっている組織が関係しているということではあるが。

 払った金が連中の好き勝手に使われて、払わなかったら犠牲が出る、その意味では同一だ。国家という組織は、本質的には単なるサービス産業である、ということを教えてくれたのは、ある別の小説だったのだけれど、そういうふうに、ものの見方を変えてくれる本。

 税金がサービスになって返ってくるなんてのはウソだよ。生活保護を止めて貧乏人を餓死させたり凍死させたりするくせに、政治家や役人や人殺しや暴力団や犯罪者のぜいたくのためにどれだけ使っているか。


【1月】失敗百選 中尾 政之
森北出版 ISBN4-627-66471-0 2005/10/20 ¥3,780
 さすがによる年波、集中して読書などできなくなりました。ペースを落とさざるをえません。いや、5分も睨んでると、自然に見えなくなっちゃうのよ。特に仕事中は。

 畑中洋太郎の失敗学と言えば、知っている人も多いことと。この本は、失敗学の教科書であります。著者の年代を見てびっくり。でも50前でも十分な年か、こちらが年取っただけだ。

 読んでためになる失敗物語。以前から研究してきた失敗の原因の分析結果を基に、事例を集めて整理したもの。これさえ読んで理解すれば、二度と失敗することなどなくなる・・・はずがない。人間はミスをするもの。そのミスの後始末までを含めて、事故を防ぐための努力、被害を小さくするための努力を勧めるわけです。教科書ですから、エンジニアがまじめに読んで頭において、今後の設計の場面でしっかりと応用すること、それが重要なのですが。

 その中から、代表的な例を出しておきましょう。素人から見れば、驚くような新事実に見えるかもしれないけれど、技術の場面ではすでに当たり前になったことがたくさん含まれています。世間で偉そうに技術を論じるド素人評論家の群が、実際何もわかっていないということを改めて教えてくれるわけでもありますが。
特に政治評論など、政治家やら右翼やら、ひどいもんで、その無知がよく分かる話でもあります。

 チャレンジャー号の事故と言えば、低温で性能が劣化する部品があるのに、それを指摘した現場技術者を経営者が黙殺あるいは押し切って強行し、あげくは大事故を引き起こしたとして有名です。その後、エンジニアの倫理教育の材料のトップにすえられて、上司が何を言おうと、正義のために頑張るエンジニア、というのが回答できないと、倫理観のない技術者として「反省文」を書かせられるはめにおちいるのです。あれ?
 しかしその後の調査で、事実はかなり違うことが分かっています。あれは、低温でもダメなのは本当だけれど、実は常温でもダメだと分かっていた。だからこそ、エンジニアは経営陣を説得できなかったのであり、別にエンジニアが偉かったわけでも何でもない。元々ダメだったのよ。

 タイタニック号の沈没の原因は、品質の悪い鉄板が低温で劣化して氷山で切り裂かれたということになってるようです。でも実は、鉄板を張り合わせるリベットの頭がもげただけ。リベットの品質も悪かった。その結果、鉄板がたわんで巨大な隙間ができて海水が一気に流入し、隔壁不良のために沈没した、とまあ、こういうわけです。沈没に至るメカニズムは、これまでの風説とはまるで違ってました。もっとも、この事故では沈没そのものはさほど問題にされてません。最大の問題は、定員の1/3しかない救命艇の数だったからですが。

 そのほか、ある列車事故にかけつけたヘリコプターは、ドイツでは15分以内に60機以上。これが片っ端から負傷者を病院に送り込んだという実績。一方の日本では、例の福知山線の事故。この時のヘリは3機、ついたのも1時間半後です。あいつらは何のために来てるのか分からない。日本の体制や思想がよく分かる話です。

 事故とその事故の後の復旧について、さまざまなことが書いてあります。多すぎるし、専門的に過ぎるから、広くはお薦めしませんが、立ち読みでならいいでしょう。話のネタを仕入れるのにも適当。