●今月の一冊 2004年●

【12月】百億の星と千億の生命 カール・セーガン
滋賀洋子・松田良一 訳
新潮社 ISBN4-10-519204-3 (2004/06/30) \1,900

 人の心をゆさぶるに十分なほど、生命を感じるほどの力がこもった作品というのがあります。詩歌の件もあったけれど、書籍にも同じ力を感じるものです。内容も、著者の力量も、そして主張の強さそのものも。そこらにある書き散らしただけの本、書の名に値しないような出版社御用達のなれあい文書、独りよがり以上のものではない単なる作文の類の多いこと。この本はそんな中で燦然と輝いていると言っていいでしょう。

 著者カール・セーガンは有名ですが、有名なだけに「読まず嫌い」で長く敬遠していた人物でした。それが、コスモスほかを読んで自分の愚かさに恥じ入ったしだいです。

 カール・セーガンの絶筆。
 これほどの知性と信念とで合理性を追求しながら、一方で人類への信頼と愛とを持ち続けるというのは、もはや信じがたいほどの度量の大きさである。世界中に信頼、尊敬され、そして愛されたとしても、その資格は十分であろう。惜しむらくはあくまでも西洋文明の人であり、「遅れた世界」への視線に憐れみが見え隠れすることだろうか。ただもう褒めちぎるだけ、というのも何なので。

 −−多くの人達から、「死後の世界を確信しないでどうして死と向き合うことができるのですか」と尋ねられたが、「別に問題ではなかった」としか答えようがない。「弱い心」については保留するが、私は尊敬するアルバート・アインシュタインと同じ考えを持っている。『私は、自分の創り出したものを褒めたり罰したりする神や、我々自身と同じような意志を持つ神を想像することはできない。人間が肉体的な死後も生き残るということも信じられないし、また信じようとも思わない。弱い心の人達は、恐れや不条理なわがままからくる、そういう思想を抱いているがよい。私は、生命が絶えることなく伝わって行く神秘にふれたり、この世界の驚くべき構造を垣間見たり、自然の中に現れる真理の一端を、それがどんなに小さくとも、理解しようと一心に努力することだけで満足だ』

 まさにこの保留した点において、カール・セーガンの人類への信頼が分かる。
内容は多岐に渡り、人類の未来と、そして人類に対する信頼感があふれている。
まだ未来がある諸姉諸兄に強くおすすめします。

【11月】標準の哲学 橋本毅彦
講談社選書メチエ235 ISBN4-06-258235-X (2002/03/10) \1,500
 これまでは普通の本を選んできましたが、今回は専門分野のものです、すんません。え?これまでも偏ってたって? 十分に「普通の本」だったつもりなんだけどなぁ。どうせ趣味の世界よ。ま、確かに今回は小生の仕事に関係するところなのです。

 標準っつうと何を思い出すかって言われても困るでしょう。そう、規格だとか、共通だとか、一般だとか。同じサイズ、同じ組み合わせが許されるように、何らかの形で決まっているその決まりのことだと思えば近い。
 標準がないと、似てるようで違うものを毎回毎回苦労して使っていかなければならなくなる。自動車の運転席が右か左かなんていう程度なら可愛いけども、コンセントの電圧が100Vだったり120Vだったりしたら、恐ろしくて使えない。デファクトスタンダードってぇ言葉もあるが、これはなるようになると思ったところが、自然に強いものが決まったという話。VHSやウィンドウズとかいうのがその例であります。
 で、この本は、その「標準」という考え方がどこでどうやって始まって、どこでどうやって発展していったか、という話なのです。興味ないか、そうか。
 んで、この本は「標準」の話なのですが、読んでいくと世界を見る目が変わるという点で推薦なのです。いや、別に「標準」を覚えなさいではなくて、次のようなつながりで。
 標準=大量生産=軍事産業=アメリカ=銃の氾濫=兵器の輸出=アメリカの世界平和
いや、ホントの話です。今、堂々と死の商人になりたがっている日本政府と日本軍、日本の軍事産業はこれをまねようとしているらしい。

 アメリカが世界最強の国になったその原因は、軍事産業の最強国だから。独立戦争でイギリスを追い出したはいいが、そのイギリスの技術隔離政策で産業の発展に問題を感じた米政府は、フランスの標準化を導入し、一気に産業に適用した。 この時代の産業でしかも政府の思い通りにやれて、さらに金に糸目をつけないとくればそれは当然軍事産業になる。そう、標準化というのはヨーロッパでもアメリカでも戦争のための道具だったわけだ。 銃も大砲も、列車も、工業機器そのものもすべてそれが大前提だったというのは、まさに気づかなかった産業の本質だった。 かくも一気に標準化に取り組んで武器の大量生産の実力を付けた国に対して、日本は標準化という発想がまるでなかったわけで、それだけでも技術的な遅れが明らか。 国力の差を広げた大きな要因の一つとして、精神論と名人芸があったということになる。 どちらも標準を許さない。

【10月】毒薬と老嬢 ジョセフ・ケッセルリング作
海老沢計慶 能美武功 共訳
* * * *

 今回は趣向をいくつか、順番に紹介することにします。本の写真がついていない理由もそこで。

1)この本は、小説でもハウツーものでもなくて、戯曲です。めずらしいでしょう。
 小説を読んでその世界に入ると、ヒーローなりヒロインなりに感情移入したうえで、その世界を好きなように想像していっしょに動き回る印象です。ところが戯曲ではその場面が細かく指示されて、どこからどう歩いて、どうしゃべるかまで明らかにされています。それでもそこに自由があって、あたかも脚本、演出家にでもなったようにその世界を作れるのです。読んだ時の楽しみ方が少しばかり違うようですが、面白ければそれでいい。

2)この話は文句なしに面白い。有名な話ですから、少しばかり筋書きを紹介しても許されるでしょう。
 第二次世界大戦直前のアメリカ。ブルックリンの豪邸に暮らす老姉妹は、貸間を探して訪れた老人に毒入り酒を振舞って、天国に送ることに精を出していた。自分をマッカーサーと思い込んでいる甥も同居。そこへ、もう一人の甥が新妻を連れてやってくる。さらに、その兄が久しぶりに帰郷してとんでもない展開へ。
 これまで小説を避けてきたのは、好みの違いで面白くないのは申し訳ないからですが、これは文句なし。日本の話ではあまり登場しない「老嬢」ですが、ミス・マープルを筆頭に、小説でもTVシリーズなどでも活躍しています。

3)映画で見た人もいるでしょう。ケイリー・グラント主演で、原作に忠実に作られています。実のところ、小生も映画を先に見て、読んだのはその後。本当は舞台を見ておきたいところですが、これまでその機会に恵まれておりません。映画にするととたんに面白くなくなる小説(日本だと顕著で、山田風太郎や半村良など、被害者は数多く)がたくさんありますが、これは映画でもちゃんと面白い。もちろん原作がよく作られていることもありますが、監督の腕が問題でしょう。さらに役者がよかった。舞台で受けたのと同じように、映画でも藝達者です。

4)これは本を読んだのではなく、青空文庫から入手したものです。知らない?ウェッブ上の電子図書館で、著作権の切れたものを中心に数多くの作品が入手できます。この話もインターネットからダウンロードして、適当に整形した上でパームパイロット(PDA)に載せて、細かい空き時間に読みました。必要なら
青空文庫までお出かけ下さい。本を読む時間もない、という人でも待ち時間5分とか、空き時間3分とかあるでしょう。そんな時でも、文庫本を取り出す代わりにPDAで読むという芸当ができます。図書館から借りるのと同様に無償で、返却期限もありません。気軽に利用できると思います。
 例えば、夏目漱石、芥川龍之介、海野十三、島崎藤村、寺田寅彦、テレンス・ラティガン、こんなところを青空文庫で読んでいます。

5)どうしても本当の本の形で読みたかったら、ちゃんと出版されています。手配すれば買えるでしょう。訳者は違いますが。どうせならビデオ(DVD)でも借りて見てもいいかもしれません。楽しみ方はそれぞれ。

【9月】求む、有能でないひと G・K・チェスタトン
阿部薫 訳
国書刊行会 ISBN4-336-04619-0 (2004/02/22) \1,800

 あのブラウン神父のチェスタトン。とは言うものの、じつのところブラウン神父ものは読んだことがない。これは、辛口批評でなるコラムニストのチェスタトンであり、こちらの方が本職だとか。

 第一次世界大戦前あたりから第二次世界大戦の前頃まで、ロンドンを中心にしたコラムの数々。確かな信念の下、社会主義や自由主義、フェミニズムに至るまでその攻撃の対象には事欠かない。宗教こそがすべての人間の根元であるという考えには一点の曇りもなく、強烈な確信と思想が裏付けるその舌鋒にかかると、何者も対抗できるとは思えない。しかもそれが議論を許さないほどの盲信かと思えばそうでもなく、その寛容さもまたみごとなほど。進化論に代表される科学そのものについての指摘も、現代に通じる本質をついたものと言えよう。現在に連れてきても、これに太刀打ちできるような哲学をもった人、思想家、などいないだろう。今の日本を牛耳っている老人たちに爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。

 「極論による問題提起」などという読み方をした書評も見かけたが、そんなレトリックの問題ではない。確かに、主張を強く印象づけるという手法としての極論なら、小生でも使っている。だが、ここにあるのは明快な断罪であり、読者に対して考えることを強制する強さである。

 いやはや、読みやすい本ではないし、その主張も単純に受け入れられるものでもないのだが、読めばそれだけのことはある。たまには歯ごたえのある本も読まなきゃ。それほど厚いわけではないし。

【8月】あたりまえのこと 倉橋由美子
朝日新聞社 ISBN4-02-257679-0 (2001/11/01) \1,400

 これまで何冊か紹介してきましたが、小説の類は出していません。「お話」というのは好みの問題であり、一般向けに大丈夫というようなものにはなかなか当たらないものです。個人的な好みだけであれば、かなりの候補があるのですが。そこで今回は、その小説を読むための見方の一つである、「名文」とか「小説論」とかいう分野の本です。

 著者の倉橋由美子の小説なら、読んだ人も結構いることでしょう。小生の読んだごく限られた範囲では「大人のための残酷童話」、「怪奇掌篇」、「最後から二番目の毒想」、「交歓」があります。残念ながらいずれも10年以上も前のことで、記憶は定かでありません。「残酷童話」はグリムの原作に驚いた例の騒ぎのずっと前のことだし、内容はオリジナルな「例によって辛口」です。著者が最近あまり小説を出していないこともあり、心配しているファンもいるようですが、本人によれば体力の問題だとか。この本は、連載発表済みの小論の見直しだそうです。

 小説論ノート、小説を楽しむための小説毒本。多くの小説がなぜ面白いかではなく面白くないか。名文とは何かというよりひどい文とはどんなものか。そんな話が入り口です。名文とはしょせん天性のものであり、技術や訓練でどうかなるような代物ではないと断言しており、中学校以来どう転んでもまともな文章が書けない小生などには救いであります。著者は辛口と称していますが、実際にこき下ろされたものが面白くない代表であり理解すらおぼつかない実例であることは明かです。また、文壇そのものへの言及も同様。小説の批評など、同業をけなすはずもなく、そこそこ引用して見せてそのあとは自分のコマーシャルを並べるにすぎないとあっさり切り捨てています。あるいは、歌壇もネームバリュー以上のものではないという立場。小生は同感ですが、ただのひがみかも。SFやファンタジーには目もくれません。小説は登場人物が成長し躍動してこそ意味がある。それ以外のものはしょせんただの時間つぶしにすぎないそうです。でも、SFの主人公は「文化」や「政治」、あるいは「社会」や「生命」であり、新しい環境変化の中で人間が右往左往することで「主人公」が変わっていくのです、って言ってもなぁ。

 連城三紀彦と山田詠美の小説が名文だとか見事だとか言っているのですが、後者のどこがいいのやら、どうしても理解できない文章なので。(ちなみに山田氏は拙宅の近所にお住まいですが、面識はありません。)小林秀雄が出てこなかったのは小説の中にも小説関連にも含められなかったからでしょう。どうでもいいことをできるだけ難しく表現する才能、という風にでも言ってくれればいいのに。また、文体の遊びの意味で筒井康隆とか、丸谷才一などをあげてもよかった、というのが感想。

 こうして長々と紹介すると、どうしても物足りない部分についての言及が多くなってしまいます。しかしそれも、読んで考えさせるところが多いからです。文章読本や名文についての本を読むのならおすすめします。

【7月】フロイト先生のウソ ロルフ・デーゲン
文春文庫 ISBN4-16-765130-0 (2003/1/10) \705

帯に曰く:
「アダルトチルドレン、買い物依存症、燃え尽き症候群・・・心の不調を感じたら専門家のカウンセリングを受けるのが常識といわれる。しかし、その常識、ちょっと待っていただきたい。あなたは”心理学業界”の術中に陥ってはいないか。『心理療法にはおまじない以上の効き目はない』と喝破し、”業界”から目の敵にされた著者の問題の書。」

第一部「影響力」のウソ
 心理療法、教育、マスメディア、能力開発
第二部「心」のウソ
 無意識、自己認識、自尊意識、心身症、多重人格
第三部「意識」のウソ
 瞑想、催眠、臨死体験
第四部「脳」のウソ
 10パーセント神話、右脳と左脳

 科学ジャーナリストによる精神分析批判、いや精神分析商売の批判か。トラウマ、多重人格、催眠術、自尊心、リラグゼーション、α波など、精神分析とその亜流の小道具の欺瞞をあばき、統計的にまったく意味がない、良くて無益、悪ければ病気をひどくするということが実証されている。中には同じ批判ネタの解釈が、差がないというものから反対の結果が出るというものまであって一貫していないという我田引水、押しつけぶりの問題もないではない。しかしそれでも、対照実験を含めた実証的な態度が科学的な批判として強力である。
 ありもしない「性虐待」の記憶をデッチ上げ、裁判で親子双方をぼろぼろにして、儲けたのは精神分析医と弁護士だけ、というアメリカの現実がこれ。

 かくも過激な主張なので反発も強いらしい。国内の書評を見ても、賛否両論。
 「フロイトは厳格に読んではいけない」などという聖書をあがめるような「フロイト教信者のどこかの先生」の批判もあったが、読んでないのは明らか。フロイト批判ではなくて、フロイトをダシにするだけの臨床心理学の閉鎖性を糾弾しているんだよ。
 「自分のデータなどないくせに」とか言う「どこかの先生」は、自分の実験データだけで論文書いているんだろうか。公開されている論文を調査して裏付けとしているのは、科学ジャーナリストとして立派なことではないかい。

 内容は面白いが、独と欧米に偏っているのが玉に瑕。また、切れ味が良すぎて、返す刀で自分まであぶない。ほとんど「トンデモ本」の一歩手前か、ひょっとしたら半歩踏み込んでいるかも。

【6月】ハリー・ポッターの科学 ロジャー・ハイフィールド
早川書房 ISBN4-15-208532-0 (2003/12/15) \2,200

国語、英語、社会、数学、ときて今回は理科(科学)であります。

 第3作も映画化、公開されてちょうどいい時期。ハリー・ポッターの世界(ローリングの世界)の魔法は成立するのか、その疑問の一部には答えてくれそうな本です。日本以外でも好きな人は好きなのねぇ。
 ほうきで空を飛べるか。呪文は、透明マントは、魔法の薬は、不思議な動物たちは。そして、クィディッチの歴史は。

 著者はデイリー・テレグラフ誌記者。さすがに博識で調査が行き届いていますが、ハリポタの蘊蓄と、科学魔法宗教の最新情報の寄せ集め、と言ってしまえばそれまで。歴史上の幻想について最新の解釈を次から次へと示しては、科学と魔法の境界はあいまいなのだと説いています。麻薬にしても、最新の科学技術にしても、そして奇病の類にしても、出てくるネタは既知のものが多く新鮮味は薄いのですが、これだけの量を並べられると壮観ではあります。本の厚さもあるし、読み応えあり。ハリポタ本編の字の大きさと隙間にがっかりしている人にも、380ページはたっぷりでしょう。
 魔法と悪魔信仰とは切り離せない関係にありますが、宗教についてその主な主張である「信仰の厚い人は従順で、わがままでない」というのは、イスラム教や仏教などの方に特有な話であり、キリスト教、特にプロテスタントはその正反対。漢方薬に対する完全な無知もさらけ出しながら、キリスト教信者特有の傲慢さも気になる一冊でした。

 ところで、ハリポタ本編も3作目は良かったけど、4作目はひどかった。5作目はもちなおせるのやら心配。

【5月】放浪の天才数学者エルデシュ ポール・ホフマン
草思社 ISBN4-7942-0950-9 (2000/4/5) \1,800

4色問題とフェルマの最終定理、この二つの難問が解決したのはつい先日のような20世紀末。数学の世界も進歩し続けているのですねぇ。その20世紀の数学の歴史をそのまま表しているような人物がこのエルデシュです。聞いたことがない?そうでしょう、小生も同じ。

1913年ブダペスト生まれ、1996年死去、享年83歳。問題提起、問題解決、若手育成のエキスパートでありながら、世界中が震え上がるほどの変人。
数学の世界でエルデシュに関わりのない人物はいなかったらしい。何せ、世界中の数学者のところに居候を続け、その研究を助けていた由。出した論文の数も数知れず、共著となっている数学者の数も数知れず。

この本は聞いたことのある数学者と、聞いたことのある定理と、聞いたこともない数学者の山です。フェルマの最終定理で有名になった、志村=谷山予想も出てきます。なおこの予想問題とその裏話については別の本(天才数学者たちが挑んだ最大の難問)に詳しいので省略します。

さて、世界中の数学者がひっかかったという確率の問題がこの本で紹介されています。3つの箱から一つを選び、残りの内のはずれ一つを開けて見せた後、当たる確率は乗り換えた方が上がる、という話。

話題提供:クイズです(2004/5/28 MLより)

クイズです。巷に氾濫している心理テストではありません。まじめな数学、確率に関する問題です。条件は簡単です。

3つの区別できない箱があり、その一つには賞品が入っていて、残り二つははずれです。この中から一つだけ選んで賞品をあてるというものです。

まず、どれか一つ選んでください。
それから、選ばなかった二つの箱のうちから、はずれの箱を一つ除きます。
これで、選んだ箱と、選ばなかった箱が一つずつ残りました。
ここで、もし乗り換えたかったら選んだ箱を乗り換えてもいいのです。

さあ、どうしますか。次の中から選んで下さい。

1)乗り換えても確率は変わらない。乗り換えない。
2)乗り換えても確率は変わらない。でも乗り換えようかなぁ。
3)乗り換えた方が確率は上がる。乗り換えよう。
4)乗り換えたら確率が下がる。乗り換えない。

喜々津先生に数学の神髄を教わった諸姉、諸兄であれば、まさか2)ということはないでしょう。

正解と解説は、今月の書評欄に載せます。何を隠そう、このクイズは書評欄のヒット数を上げようという謀略なのでした。


そう、正解は3)、確率は上がるのです。では、いくつからいくつに上がるのでしょうか。正解の人もちゃんと計算したかな。1/3から2/3に上がる、つまり倍になるのですから、乗り換えて当然。

こういう問題は一般化した方が分かりやすくなります。
今、無限にたくさんのドアがあり、その中の一つだけが天国(目的地でも地獄でも、何でもいい)に行けるとします。その中から一つだけ選んで下さい。当たる確率は1/∞、つまりほとんどゼロです。選ばなかった方に当たりがある確率はほとんど1になります。
そこに悪魔(天使でもドラえもんでも、何でもいい)が現れて助けてくれます。選ばなかったドアを一つだけ残して片っ端から開けて、はずれであることを見せてくれるのです。ということは、残った一つは、選ばなかった方の代表であり、そちらの方が当たりである確率はほとんど1だということです。言い方を変えると、乗り換えるということは、選ばなかった方の全部を取る、ということになるのです。分かったかな。
対象が二つの時は開けてみせることがことができないから確率は1/2以上にはならないけど、対象が三つ以上の時なら乗り換えることで確率は倍以上になるわけです。

実はこの本にも説明があるのですが、分かりにくいうえに間違っています。結論はもちろん合ってますが。ヒドイ話じゃないですか。著者も数学者ですから、数学者の実力もよく分かりますナ。もちろん、エルデシュも間違えて、確率は変わらないと主張して譲らなかったようです。

この問題の面白いところは、乗り換えて成功した時の快感よりも、乗り換えて失敗した時の後悔の方が強力だ、という心理的な点にもあると思いますよ。

【4月】戦国15大合戦の真相 鈴木眞哉
平凡社新書193 ISBN-4-582-85193-2 (2003/8/20) \760

日本の歴史に関して、歴史学者も一般人(パンピー)も、悪癖に毒されています。それは、軍記物、講談、歌舞伎を本当の歴史だと思いこんでいること。だからありえないことを平気で並べ立てるのです。
曰く、信長の鉄砲三段撃ち。曰く、謙信と信玄の一騎打ち。曰く、武田の騎馬軍団。曰く、好色強欲な吉良上野介。

陣城の馬防柵の前で勝手に撃ちまくっている足軽の絵を見たことがないのか。上杉謙信は馬に乗れなかったのに。戦国時代の日本馬は小さくて重装備の兵士を乗せて走るどころではなかったのに。名君で聞こえた高家筆頭という意味が分かっているのか。

鈴木眞哉氏はこうした誤りを非難するでもなく、実証できるデータを元に戦国時代を再現して見せてくれます。戦国物が好きな人は必見。戦国の合戦の実態を理解すると、それが決して整然とした軍略と呼べるものではなく、偶然と政略との混合物であったことが分かります。
明智光秀と石田三成という実務家に心惹かれる小生としては、不運な合戦に涙するのでした。

日本史の授業も、信長+秀吉+家康=江戸幕府三百年、というようなありきたりな話ばかりでなく、本当は、という話も欲しかった。

これで国語、英語、社会、と来たから、次はアレだよ。

【3月】手づくり英語発音道場 平澤正夫
平凡社新書208 ISBN4-582-85208-4 (2003/12/18) \760

中学校英語の最初の一歩はIPA(発音記号)だった。この事実は、その後の英語に対する興味、進歩、態度に決定的な影響を与えました。さすがは附中。賢明なる諸姉諸兄とは違ってあいにく察しの悪い生徒にはその重要性が分かるはずもなく、先生の偉さも理解できず、気が付いたのはずいぶん後になってからですが。

さて紹介するこの本は、戦前の英文科卒の雑文書きによる英語話。カナ表記の発音はいかにもあやしげではありますが、日本語と音が違う、従来のローマ字読みではかえって不正確だ、発音が違うということを強調するための方便と思えば意味もないわけではないのです。IPAも出てきますが、あえてカナ表記で押し進めようという「意地」が。

正直なところ、このカナ書きそのものにそのまま従うというのはお奨めできませんが、音というものを考えるうえでは参考になること間違いなし。

なお、対ネイティブ指数50とかいうのはまったく意味がないので、気にする必要もありません。
ところで、英語はこうして発音の指導がありましたが、日本語についてはまったくそれらしいことがなかったのは、何かおかしいとは思いませんか。

期末、年末というのはサラリーマンにとっても忙しいもんです。
みなさまご自愛を。

【2月】日本語の歴史 青信号はなぜアオなのか 小松英雄
笠間書院 IISBN4-305-70234-7 (2001/10/30) \1,900

係り結びの法則、覚えているでしょう。あれは古文だから、日本語じゃぁない、と思うかもしれないけれど。学校文法では、「何かの強調」として覚えていたあの係り結びの本質は、単に文節の切れ目を示す印だった、という主張。

現代文は文字だけの文章も存在しますが、そもそも言葉は音にするもの。その意味で、係り結びによる音の切れ目、音節の分離は、聞く人との意志疎通を図るために立派な働きがあったということはよく分かります。教室で音読させられたのを思い出したかな。

この本のネタはこんなことよりも、むしろ日本語、日本語史の研究の現状に対する悲憤慷慨を綴ったものなのですが、その点だけを読んでいたのでは一般読者としてたまったもンじゃぁない。読むべき点はほかにありました。

さて、青信号はなぜアオなのか。答えは、赤と対になるのはアオだから。
そもそも日本(語)の色は4原色です。赤、白、黒、青。それぞれ、明るい、はっきりしている、暗い、淡い、に対応します。だから、赤白、白黒、赤青が対立関係にあります。まだ分からない人は、赤鬼と青鬼を考えればよろしい。
緑という色は存在しない。緑の色感は、「みどりの黒髪」に明らかです。

なお、この「色」の問題はこの本よりももっとふさわしい本があるようです。諸姉諸兄にあっては、立ち読みでもしてみては。子供に知ったかぶりをするのには格好の話題です。でも、中学校くらいでも教えてほしかった。