●今月の一冊 2006年●

【12月】お座敷遊び 浅草花街芸者の粋をどう愉しむか 浅原 須美
光文社新書093 ISBN4-334-03193-5 2003/06/20 ¥700
 我らも半世紀を過ぎて、長崎に残ったお大尽だけでなく、世界各地の諸姉諸兄にあっても、それぞれ人格身分にふさわしい優雅なる趣味に余念のないことと拝察するしだい。そうした趣味の中で、日本の歴史、文化から見ても、「美しい日本」にふさわしい伝統文化として「お座敷遊び」は忘れてはいけない存在と言えるのではなかろうか。

 「いきつけの待合に馴染みの芸者を呼んで、料理を肴に芸者のお酌で一杯やりながら、三味線に合わせて小唄のひとつでも」などと、この本のカバーにはそう書いてあるのです。いや、ホント。別に男の遊びではなく、芸者もあれば幇間(たいこ)もある、大人としてのたしなみとして、ですな。

 4,5人で行って芸者二人呼んで、二時間で、一人当たり5万。プラス祝儀が時価。食事は名目だけだから、まともなものは別に用意するとして、一晩で。いやはや、これは金銭的にも時間的にも十分な余裕があるというよりも、十分な粋人だけがやるべきもので、一般人には関係ない世界だということのようです。特に、酒も飲まず、賭事にも縁がなく、夜な夜な遊び歩くことなどありえないとしたら、想像も及ばない。この本には、入門者向けの浅草のコースまで紹介してありますが、その内容はチト優雅過ぎて、そしてお遊びも過ぎて、実はとても納得できないのでありました。

 いまだ現役の芸者、見番の人たちから直接聞きだした、その歴史と粋の実態。これがこの本のすべてです。一言で言うと、なんだ、水商売な、って、あたりまえか。

 文化というのは壮大な無駄、無駄の極致ではあるし、その無駄を吸収するのもまた無駄の寄せ集めなのだからして、人間の余裕というものが現れるということです。しかもそれはまた、文化にまったく縁のない人間の存在を前提にしているということでもあるわけで。そんなこんなを考えると、政治家役人軍人犯罪者という存在だけには関係させたくない、そういう気持ちにもさせられます。明治大正昭和、それぞれの時代に好き放題をやった政治家や役人や、軍人や要するに犯罪者連中は、確かに大量の資金をこの世界に落とすことで、この文化の絶滅を防ぐ役割を果たしたのでしょうが、それはまた逆に、この世界が相手を選ばない存在であったということでもあるのでしょう。いやいや、こんなうがった見方はこの本には書いてありません。

 それにしても

 旦那衆諸兄は是非ともこうした文化を根本でささえていただきたい。諸姉にもし芸を積んだ方あれば、永久に姐さんです、よろしく頼みます。


【11月】海難の世界史 大内 健二
成山堂書店
交通ブックス213
ISBN4-425-77121-4 2002/01/18 ¥1,500
 先日のお別れ会で実に35年ぶりに会った顔顔。自分も同じかと思うと、いささかがっかりしたが、そんなぜいたくは言っていられない。すでに半世紀を超えたことを思い出し、父親の世代を考えてみると、当時のサラリーマンの定年退職は55歳。引退が近づいていたのだと言うことに今さらながら驚いてしまう。そう言えば、諸姉諸兄は、引退後はどうしますか。

 この際、世界一周旅行だ。どうせなら豪華客船で船旅だ。何と言っても、飛行機は止まったら落っこちるけれど、船ならエンジン止まっても浮いていられるから安心に違いない。もし、資産が二桁か三桁か多ければ、喜んですぐにでも出発するのだが、安月給に教育費というのは別に昔の話ではなくて。

 そういう期待に水を差してしまいそうなのが、今回紹介する本。海難、つまり、船が遭難することについての本です。

 海難の定義から始まって、古今の事例を示す、ごくごくまじめな解説。しかも、海難の前提となるのは、海運と航海の歴史であり、人類の文化、冒険の歴史そのものまでが分かるのです。例をあげて見れば;
 第1次ポエニ戦争の前哨戦であるシシリー島沖海戦で、ほぼ引き分けたはずのローマ海軍が、暴風雨にあって残存軍船300隻のほとんどと10万人の被害を出した例。
 文永の役では実は暴風雨はなくて、元軍の被害はなかったこと。弘安の役では伊万里湾で暴風雨にあった元船約3000隻が消滅、10万人が被害にあったという歴史。
 15世紀初頭、明帝国の鄭和の大船団は62隻、3万人におよび、アフリカ東岸までを探索した大プロジェクトだったこと。
 そのほか、数千人を超える被害者を出した海難事故、戦禍は数限りがない。タイタニック号の遭難などその中のほんの一つに過ぎない。

 少しばかり説明を追加するなら、第1次ポエニ戦争はハンニバルが活躍する前の話。当時世界最強を誇る海運国だったカルタゴに対して、急造ではあるものの十分な研究成果を見せたローマ海軍が意外にいい勝負に持ち込んだ、そういう海戦です。ところが、問題はその後。カルタゴ海軍は操船にすぐれていて、地中海を自在に運航し、みごとに暴風雨を避けたのですが、ローマ軍はド素人の集団で、あっさり沈没したしだい。これでローマ海軍は壊滅して、本来ならその後はカルタゴの一方的な勝利、となりそうなものが、国力と政治力の差がそれを逆転してしまう。そしてハンニバルが現れて。ローマ帝国の歴史の中でも、このあたりは実に派手な部分だと思いませんか。

 モンゴル軍の2回の日本侵攻は、どちらも神風で壊滅した、と思っていたら大間違い。実は、文永の役の方は本気じゃなかったようですな。それでも日本軍に与えたショックは大きくて、防衛体制は一挙に強化されます。その結果、弘安の役では上陸もままならず、海上待機のあげく台風をくらった、というのが真相らしい。もともと、海軍としても指揮体系がいいかげんで統制もとれていないらしくて、やたらと軍勢だけが多い、問題の多い侵攻作戦だったのです。当時の日本政府にとっては非常に運が良かった。まともに海戦を挑めるほどの海軍力もなく、陸上戦でもガチンコ勝負は無理だったでしょう。それが、強力な防衛線を確保できたおかげで、次の幸運である台風まで時間をかせぐことができたということ。

 さて、著者は小野田セメントのOBで、この分野は趣味の世界じゃなかろうかと思われます。決して仕事上の専門の分野でもなさそうなのだが、それでも何冊か、この分野の本を続けて出しています。さすがだ。


【10月】パニックの手 ジョナサン・キャロル
創元推理文庫 ISBN4-488-54709-5 2006/05/31 ¥720

 10月も終わろうとしてます。ここのところ、時間の過ぎるのが非常に速い。何かなすまでもなく、気づくまでもなく、追われているような気がしてます。思えば、仕事に油が乗り切っていたような時期、それ以外に何もなくてのめり込んでいて、疲れていても気にしなかったような時期も、やはり時間は飛び去っていましたが、それとはもう違う。

 今回紹介するのは、1988世界幻想文学大賞【Short Fiction】を受賞した一編「友の最良の人間」Friend's Best Manを含む短編集。年に1作しか出さないという寡作さが売り物らしい、そんな作家です。面白かったか、というとそうなんだけれど。

 裏表紙の能書き、解説のほめ言葉、それぞれ少しも嘘はないと思う。しかしそれほどだろうかとも思ってしまう。短編集だから、短編がたくさんあって、それらに共通する世界もあるし、それぞれの出来不出来もある。
 一言で言って、非常に平凡な発想と想定のうえにあぶなっかしく乗っかった、平凡な物語。一歩間違えればただの作文以下に陥るし、実際多くのものはそうでしかないと言い切れる。それを何とかかろうじてかわして、物語として生き残ったものは、やっとオチを愉しむことができる。あきらかに女性による、あるいは女性的な感性による語りであって、とても男とは思えない。ディック・ブローティガンの優しさとは異質であり、強がったへなへな感がそう思わせる。読み終わった印象はそんなところです。それぞれを読んでその世界に入ろう、という時間が、だんだんと少なくなってしまう、そういう感じ。
 中では「フィドルヘッド氏」が秀逸であり、そしてまた唯一である。「秋物コレクション」はそうあるべき物語なので別に文句はない。しかしその他の話はすべて、言葉遊びか、単なる不愉快さを強調した悪趣味か。世界幻想文学大賞受賞の「友の最良の人間」に至っては、あまりの陳腐さにあきれて、開いた口がふさがらない。どうしてこれが大賞になてしまうのだろうか、評論家諸氏はマンネリがお好き。

 というわけで、おすすめは上記の2編。この感覚に同感してもらったとしたら、ひょっとしたら感性が近いのかもしれない・・・それはほめていることにはならないだろうけれど。それ以外は、読んでみて、それから好き嫌いを決めてもらうしかないでしょう。お話の世界なんだから、著者によって、書いたものによって、ずいぶんと印象が違ってしまう。いずれにしても、それはすべて読む側の問題であって、好きなように読めばいいわけだからねぇ。


【9月】方言が明かす日本語の歴史 小林隆
岩波書店 ISBN44-00-006838-5 2006/02/23 ¥1,600

 青信号の本を紹介したことがありますが、今回も似たような傾向の本です。
 柳田国男の「方言周圏論」をごくごくおおざっぱに見れば、長崎に残る方言はかなり古い形の日本語であり、古語辞典に見るようなものか、それに対応するようなものがあるんじゃないかと思いませんか。中高ではまさかそんな戯言を教わったことはないけれど。

 長崎人としてのしゃべりを意識していれば、北部九州、特に福岡から北九州で「〜くさ」を聞いているはず。
 「あのクサ」、「そいでクサ」、そして、「何のくさかとやろか」この「クサ」は終助詞で、間投詞的な働きをします。つまり、感嘆、強調、息継ぎの意味で使われるものですね。語末について活用しない、ということから明らかでしょう。思い出したかな。この「クサ」がどこから来たか、という説明がのっています。

 正解は本を読んで下さいっつっても、誰も読まないだろうから、ここで紹介しておきます。酒の肴に十分使えるネタなので。

 係り結びを覚えてますね。(覚えてますか、とは言わない)あの中の係助詞「こそ」は、その下に「已然形」を伴い、強調、感嘆の意味がある。これがめぐりめぐって、変化して、そのなれの果てが北部九州に残った、というのです。係助詞がついに終助詞として使われている。已然形の方は残らなかったので、係助詞ではなくて終助詞。「こそ」→「クサ」、そう言われればそうかもしれない。

 古語の研究というのは、古典をほじくりかえすだけかと思っていたらそうではなくて、現在の日本語、たった今使われている言葉の意味とその過去とのつながりの中にもあるのですねぇ。

 なお、この本で扱っているのは、こうした「今まで扱われていなかったような現代日本語」と、「これまでの定説を見直した研究成果」です。したがって、この本の内容をすぐに試験回答に使うと誤りとされることは必須であると注意があります。そういう意味では、この本をよく読んで、その中身を子供に解説するよりは、簡単に紹介した「クサ」の話だけしておく方がずっと安全かもしれません。


【8月】カーラの狼(上・中・下) スティーヴン・キング
風間賢二訳
新潮文庫 ISBN4-10-219347-2 2006/04/01 \743

 シリーズものといえば、最近ならハリー・ポッターが有名か。でも、著者自身がシリウス・ブラックの死に泣いたという不死鳥の騎士団の後は読んでおりません。ありゃ泣くほどのものじゃない。ホームズを殺した時のドイルの快哉を思い出してもらいたい。クワィガンが死んだ時の衝撃や、ダース・モールの墜死、そしてパドメを失ったアナキンの方がよほどかわいそうだ。
 未完のシリーズなら手塚治の火の鳥だろうが、もはや続編は難しいか。しかしBJもアトムも復活したところを見ると、そのうち有望な跡継ぎが出てくるやも知れぬ。
 アジモフのファウンデーションシリーズというのは知らないかもしれないが、ある世界では有名。でも、著者が年をとるにしたがって質も低下していって、後継にゆずった今はみじめとしかいいようがない。
 夏目漱石と言えば大御所も大御所、その後半生の小説はシリーズと言えないこともない。それをありがたがっていたのも今は昔、読み直してみると、猫にまさるものなし。かくもシリーズものは難しい。
 はずれのないので有名だったのが、ディック・フランシスの競馬シリーズ。別に競馬やギャンブルの話ではないが、ヒーローの勇気と思慮とが魅力のすべてを
表していた。もう次はないらしい。
 息の長いシリーズでは、小松左京の虚無回廊。最新作は実に13年のブランクの後だったが、それも2000年の話。はたして御大は結末を書いてくれるのだろうか。なんせ最新の宇宙物理学をすぐに取り込もうとするから大変なのだ。
 映画でシリーズとなれば数も多いが、3番目で止めるのが大事。それ以上のばすためには、ショーン・コネリーの後継がたくさん必要になるのだ。今楽しみな
のはカリブの海賊だね。

 さて今回紹介のカーラの狼、これはキングの「暗黒の塔」シリーズ。ハードカバーではすでに完結しているようだが、文庫ではまだ。実は図書館に入れてもらえないのか貸し出されたままなのか、読めなくなったので、今回やむなく文庫で我慢。
 ストーリーは、ギリアドのローランドが世界の崩壊を救うために暗黒の塔を目指す冒険と苦難の日々。おっと、これじゃ何のことか分からんでではないか。困ったものだが、ここは著者の言うとおり、最初の巻から読み進んでもらうしかない。アリスだってそう言われたように、「始めから始めるのだ、そして、終わりになったら終わるのだ」(むしろバカボンのパパだね)
 スティーヴン・キングを単なるホラー・キングとしてしか知らないとしたら、もったいない話。明らかに現代有数のストーリー・テラーと言える。物語を語る者。読み始めたら止まらない、という「お話でもっとも重要な要素、魅力」に満ちている、とあえて断言しておく。
 映画化されているものがたくさんある、ということ自体、その人気の高さを表しているが、映画でも小説でも、何か見てみるのがいいでしょう。どうせ読むのなら暗黒の塔、どうせ見るのならランゴリアーズが意外に拾い物かと。


【7月】妻という名の魔女たち フリッツ・ライバー
大瀧啓裕訳
創元推理文庫 ISBN4-488-62507-X 2003/11/28 \760

 フリッツ・ライバーもまた、日本では一部のファンだけに知られているような、そういう作家の一人ですが、その初期の作品です。内容はだいたいご想像のとおり。似たような話では、「ヒトのオスはペットにすぎない」というのもありまして、かくもオス・メスの秘密は大きいのであります。いや、知らぬは亭主ばかりなり、か。

 順風満帆に思えた大学教授生活も、その裏では妻=魔女同士の激しい勢力争いが。ある日妻の魔法の道具に気づいた亭主がその使用を禁じたばかりに、という物語です。ちょっと想像と違ったかな。いかにも古いお話だし、おまじないの類の組み合わせの解析もあまりに安直ではありますが、そこらはネタに触れるので省略。現在から見ればオチもそれほど複雑ではないので、そういうところに期待してもしかたがない。読むべきところは、おまじないと魔法比べというところでしょう。

 ライバーはラブクラフトに師事し、その最後の弟子の一人といってもいいくらいだと思います。ラブクラフトといえばクトゥルーで、もちろんその系統の本もあります(あるようです)が、未読。一方で、「剣と魔法」の創始者としてもまた有名で、そういう意味では現在のRPGの類にも貢献していると言えるでしょう。

 熟年離婚が増えている、いや流行っている由、その裏ではこうした秘密のさぐり合いに負けたオスが放り出されているに違いない。しょせん勝ち目のない戦い。無駄な努力で対抗するよりは、魔法で支配されて、宇宙の放浪から拾ってもらった恩返しに徹した方が長生きができそうな。いや、長生きすらするつもりもないけれど、しょせんは釈迦の掌。

 いいえ、私は知りません。何のことか分かりません。平にご容赦を。


【6月】日本の童話名作選 昭和篇 宮沢賢治他
講談社文芸文庫 ISBN4-06-198411-X 2005/07/10 \1300

 この本の中から、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」などはいかがかと。何と言うこともない単純なお話ですが、飢饉も離別も想像すらできないこの時代には有意義かもしれない。

 この本は、昭和の日本の童話を集めたものですが、「子供のための童話」の歴史など浅いもの。お子さまがお子さまとして読むことを前提に書かれていたり、子供が読んでもいいとか、ガキが読むべきだとか批評家が思ったものがのっているわけです。だから、割にすなおな表現が多い。

 かつて、「本当は怖い」なんとか童話という話が横行していました。筆頭はグリム童話だったか。グリム童話という呼び方からしておかしな話ですが、グリム兄弟が伝承を集めて記録したもの。古くから残る土着の話は、残酷なのが当然。童話だからとか、子供のためだとかいう前提がないわけだし、そもそもその子供にしたって危険から保護、絶縁されていたわけじゃない。物語は常に血塗られていたわけです。

 そう言えば、イソップの話も童話にされてしまってますが、あれは寓話。お子さまランチではないので、血を見る時は見るのがあたりまえ。有名な話ですが、「蟻と蝉」を何が何でも「キリギリス」にしたがるおばさんが多いらしくて、閉口するそうです。「夏の間歌っていたのなら、冬の間は踊りなさい」という単純明快な物語が理解できていない。

 実は同じこの本には、太宰治の「走れメロス」も載っています。この実に嘘臭いいやらしさに満ち満ちた話は、童話と呼ぶにはあまりにもみじめです。いや、だからこそ教科書にふさわしいのかもしれない。これと同じくらい教科書にふさわしいのが、やはり宮沢賢治の「雨ニモマケズ」でしょう。この二つの話、文章をほめたがる教師や批評家のそばには寄りたくない。できれば2光年くらい離れていたいところです。臭いがうつりそうで。

 さて、教科書から離れて太宰の「お伽草紙」を読むと、そのあまりの悲しさに芥川龍之介の「河童」を思い、ほとんど涙が出そうになります。しかし、この二つに涙する人間など少ないでしょう。でも、太宰の本質はこちらの方であってほしい。例え芥川賞のためだけに本を書いていたのだとしても。

 宮沢賢治の方はもう少しましです、「雨・・・」さえ除けば。「花鳥図譜七月」は絶品だと思いますが、これも批評家には評判が悪い。残念ながら、この詩は童話とは認められなかったようで、この本には載ってませんが。

 グスコーブドリの紹介のはずが、太宰治と宮沢賢治に終始してしまいました。この本には(メロスを無視すれば)いい話がたくさんあります。子供のため、ではなくて、自分のために読むのがいいと思いますよ。


【5月】怪盗ニックを盗め エドワード・D・ホック 木村二郎訳
ハヤカワ文庫 ISBN4-15-073504-2 2003/08/31 \820

ついでに、「怪盗ニックの事件簿」、「怪盗ニック対女怪盗サンドラ」も。

 そもそもこうした泥棒モノは昔から人気があって、映画も数々。好みで言えば一番はマイケル・ケインの泥棒貴族、次はグレイス・ケリーの泥棒成金というところか。オードリーのおしゃれ泥棒はその次あたり。和モノでは哀川翔の借王が無邪気でよろしいかと。泥棒ではないけれど、マイケル・ケインの詐欺師もよかった。
 お国柄もあって、米のロバート・ワーグナーのプロ・スパイシリーズは政府御用達だから放映されていたとか。仏ではルパンの方が警察よりも人気があるように、犯罪映画の方がどうどうとしている。

 さて、このベルベットのシリーズ。価値のあるモノは盗まない。無価値のモノだけを、2万ドルから5万ドル(インフレのせいデス)で請け負うという物語。
 ごく簡単に言うと、泥棒もののシーケンスは次の内容を含みます。
1)なぜ盗むか
2)何を盗むか
3)どうやって盗むか
4)盗んだモノをどうするか
 ニック・ベルベットの場合は請負なので、この1)2)4)は先に決まっている。決まり事が多すぎると話が面白くないので、そこには別の謎として1)が後から浮かび上がってくるという次第。そして、この謎解きが売りなのです。

 ホックというかなりクラシックな作家なものだから、物語もかなりクラシックで極端などんでん返しもありません。意外性はないこともない、というところですが、やや無理がある。でもまあ、読み飛ばす分にはいいでしょ。


【4月】三遊亭圓朝

三遊亭圓朝

青空文庫 * 839/04/01〜1900/08/11 *

 4月は諸々の事情で、図書館にも行けませんでした。少しばかり時間をさかのぼって、まだ紹介していない本を探し出してもいいのですが、ここは「最近読んで感想も最近のもの」というのが最低の義理だろうと思って見直しであります。そういう理由もあって、ひさしぶりの青空文庫版。ダウンロードしてはPalmパイロットというPDAに入れて読んでいますが、その結果です。

三遊亭圓朝

松と藤芸妓の替紋
根岸お行の松 因果塚の由来
政談月の鏡
敵討札所の霊験
菊模様皿山奇談
後の業平文治
業平文治漂流奇談
西洋人情話英国孝子ジョージスミス之伝

まずは青空文庫から「圓朝」の紹介を。
 1839/04/01〜1900/08/11。
 江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を開いた落語家。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。
 二代三遊亭圓生門下の音曲師、橘屋圓太郎(出淵長藏)の子として江戸湯島に生まれ、7歳の時、子圓太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがる。後にあらためて、父の師の圓生に入門。いったんは落語を離れ、歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが復帰。17歳で芸名を圓朝に改め、真打ちとなる。
「人のする話は決してなすまじ」と心に決め、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも取り組んだ。生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博す。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促した。
 さて、肝心なお話の方は、さすがに100年前の流行であり、古色蒼然としていることは否定できない。いわゆる人情話も、ご都合主義、勧善懲悪、因縁、善人と悪人の明白なる色分けなど、わかりやすさではみごとなものですが、今では物足りない。もちろん、名人の文章だから、名人が高座で読んでくれればすばらしいのでしょうが、100年以上前に死んでますからねぇ。
 では、これを何のために読んでいたか。読んでどこにひかれるか、どこに注意が向くのかということになります。
 百数十年前の庶民の日本語そのもの。言文一致の先駆けとなるほどだから、当時のにほんじんはここに書かれていたとおりにしゃべっていたと考えていい。文字だけで見てもそうとうなことがわかりますが、これを口に出して読んでみれば登場人物が生き返るのです。これはもう文字通り。さすがに名人の文章だけはある。いや、これも速記で書き残したしゃべり言葉そのものだから当然かもしれない。
 文字そのもの。当て字、カタカナを自由自在に駆使した表現が踊ります。ふりがなをとってしまうと、たまに読めないのがあるのがつらい。
 おすすめは、特にはありません。どれでもいいからちょっと読んでみては。そのうえで落語そのものが聞きたくなったら、別に聞けばいい。そう言えば、PodCastingでも、落語のサイトが2件はありますよ。

【3月】フーコーの振り子 アミール・D・アクゼル
水谷淳訳
早川書房 ISBN4-15-208680-7 2005/10/31 \552

 アクゼルは科学解説ものの大家、世界的に見ても代表で、読んだのはこれが3冊目。どれも面白い。

 学生時代を思い出す。有名な科学史の講義は、その試験の出題が何であろうとニュートンのことさえ書けばとりあえず単位がもらえるのだとか。覚えている人もいる、かどうか。結局その年は、出題がニュートンだったので、そのまま書いて終わってしまったが。実のところ、何を書いたのやらまるで記憶がない。万有引力の法則、微分、光の分解、錬金術、そして王立アカデミーの頂点で権力を恣にした晩年か。あるいはフックのような他の実力者たちとの確執か。大学ではそんなことまで教わらなかったと思うけれど。

 さて、ご存じのフーコーの振り子。実は、本物を見たことがないのです。能書きはよく知っている(つもりだ)し、それが計算通りに東にずれていっても、はたして今からどれだけ感激するだろうか。ひょっとしたら、当たり前に見えるだけで納得してしまうのではなかろうか、とかえって心配になってしまって、本物を見に行く勇気がなくなってしまってたりして。

 フーリエのその物語となると;
 19世紀フランスを代表する科学者レオン・フーコーが振り子を完成させて、フランスアカデミーに認められて死ぬまで。
 実践的な科学者であり技術者であり発明家であって、振り子を振り、ジャイロスコープを発明し、巨大な反射望遠鏡を作った。当時のこととて、すべて自分の手でやっつけたのだから大したもの。それでもアカデミーの数学者たち、権威と身内主義でガロアを見殺しにしたような連中には受け入れられなかったのも当然といえば当然だろう。正規の学者教育を受けていない万能の発明家は、エジソンのような金儲けもできず、ひたすら名誉をほしがったあげく、アカデミーに入ってすぐに死んでしまう。

同時代のフランス人で主な人物としては、
   ナポレオン3世
   ルイ・ジャック・ダゲール
   フランソワ・アラゴー
   フーリエ
   モンジュ
   ラプラス
   ラグランジュ
   ルジャンドル
   ゲイ・リュサック
   ポワソン
   ベルリオーズ
   エルミート
   コーシー
   ガロア

 
これだけ並べば壮観。それぞれどんな人物か、子供に説明できるかな。アラゴーだけは聞いたことがなかったけれど。

 せめて、これくらいのことは頭に置いて、読むかどうかを決めよう。地球が自転しているって、その証拠を見せることができるかどうか。歳差運動は時間がかかりすぎるし(1年だよ、1年)、精密な観測が必要になる。コリオリの力はいいのだが、台風が左巻きだというのもそれだけではどうも。きちんと作ってある振り子、すなわちフーコーの振り子であれば、それこそ見ているうちに差が現れるわけで、説得力は十分。実に、このフーコーの振り子があって初めて、キリスト教会が地球の自転を認めざるを得なかったというのだから。

「地球は自転してンだぞ、知ってンか。何、知ってる?証拠でもあるってか?誰でも知ってるからって、それが真実とは限らんゾ。先生がそう言った?ますます怪しいジャあないか。え、学校でフーコーの振り子を見たア?何じゃ、そりア、えぇ?振り子がぁ?動くぅ?どういうことなんだ、オイ。あぁ、動く、なるほど、さようでございますか、あぁそうか、へぇ〜〜」
「だから、最近の大人とか親とかいうのは困るんだよ、常識ってものがなくってさ」

【2月】トマシーナ ポール・ギャリコ
山田蘭訳
創元推理文庫 ISBN4-488-56001-6 2004/05/21 \552

 猫文学とくれば、ポーの黒猫に始まって、ハインラインの夏への扉、アキフ・ピリンチの猫たちの聖夜、日本なら鍋島の化猫が筆頭で、我が輩が続き、赤川次郎の三毛猫ホームズはシリーズになった。漫画ではあずまひでおのネコマタマタ、果ては綿の国星に至る。映画になったのが意外に少なくて、誘拐騒動/ニャンタッチャブルくらいで、わんわん物語では悪役だし。映画は他にもいいものがあるのだが、あいにく健忘症がひどくなり、認知症に片足を踏み入れているもので。

 で、このトマシーナ君は仮死状態でエジプトの神が乗り移る始末、娘の猫を治療できずに安楽死させようとした獣医で無神論車の父親がめでたく恋人をみつけて猫がもどって、死にかけていた娘の機嫌が直るまで。猫の視線がいいのだが、しかし、猫はそれほど子ども好きではないはずだ。そこんとこだけは考え直して欲しい。いくら話の都合でも。

 ポール・ギャリコという人は猫小説で有名だそうで、このトマシーナはその2作目にあたる。安心して読める、ごく上等のお話であり、深読みをしたり、裏をさぐったり、伏線に気をつけるなんてことはしなくてすむ。ひたすら人の誠意と愛を信じて進むところは、猫の女神を崇拝するにふさわしい。え、意味が分からない?だとしたら、猫のことが分かっていないのだよ。

【1月】楠木正成 北方謙三
中公文庫 ISBN4-12-204217-8 2003/06/25 \552

 北方謙三と言えば日本のハードボイルド界のナンバーワン。そのハードボイルドとして、「彼が狼だった日」を先に読みました。結論、間違いでした。これぁ、読むもんじゃぁない。

 ハードボイルドと言えば、フィリップ・マーロウか(名無しの)オプ。彼らがハードボイルドなのは、別にゆで卵が喉につかえたような渋い声でしゃべるからではなくて、描写から「感傷的な」形容詞が排除されているからです。って、今さら言うほどのこともない。ヒーローに感情が欠けているわけでもないし、暴力沙汰が多いという理由でもない。しかし、北方ハードボイルドでは、やたらに人を傷つけ殺す描写を増やすことがハードボイルドであり、最近は殺さなくなったなぁと褒めることがヒーローの成長を表す指標らしい。厳しい見方ではなくて、要は趣味が合わなかっただけのことですが。

 さて、肝心な楠木正成です。「ハードボイルド」をこき下ろしたのに出てくるのだから、そこは紹介するだけのことはあると感じたわけです。楠木正成のことをどれだけ知っていたかと言われたら、実はよく知らなかった。南北朝の頃、後醍醐天皇の側について政府軍と戦った悪党の一人。これくらいのものです。その名に恥じない汚い戦いぶりだったと言われていたが、実は当時としては当たり前の戦術だと分かってきた、とか。たとえば、戦国時代を通じて戦果を上げる武器の代表には飛礫(つぶて)があります。要するに石を投げるだけのことでしょうが、結構な大きさの物が結構な数だけ、結構な速度で飛んでくりゃあ、たまったもんじゃない。矢は突き刺さって止まるけど、石は跳ね返るもんね。死傷原因のかなりの部分を占めていたという統計があるくらいです。

 その楠木正成が、天皇軍に加わっていったんは勝利をおさめながら、結局は足利尊氏に逆襲されて湊川で自決してしまう。その最後の前あたりまでの話です。圧巻は当然ながら千早城の籠城戦。このあたりは日本史に明るければ常識でしょうから読んでのお楽しみ。
 武士の世の中、天皇の政治、庶民の生活、そんなところを考え抜いた、時代に先行したヒーローとして描かれています。しかし、実のところ天皇を選んだ時点で、過去にとらわれただけのスノブと見てもよかったかもしれない。「悪党」という定義が難しいところでもあるのでしょう。

 歴史上のヒーローは、小説にしやすいのでたくさん出てきます。楠木正成に限らず、多いところでは織田信長、マイナーなところでは龍造寺隆信など。で、小説家として推薦できるのは、多いところで山田風太郎。マイナーなところでは矢切止夫。諸姉諸兄にあってはそれぞれご贔屓もあるでしょうが、北方謙三だけでなく、こんなところも気づいたらどうぞ。