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最初の自己紹介で「平和が好きな濱崎です。」とひとこと。
当時14歳、中3だった先生は、長崎工業の学生だったが、学徒動員により軍事工場で働く毎日。日本が世界の上に立つ為の、正義の為の戦争と教え込まれていたという。戦争が当たり前の時代だったとは。
そして迎えた8月9日。長崎に原爆が投下されたあの日。
濱崎先生は直接被爆されたわけではないが、あの日帰って来なかったお兄様を捜して、翌日廃墟と化した焼け跡を歩き回ったという。そこは、真っ黒な人間の死体の山と瓦礫の山。「水を下さい。」という声。不思議と怖くなかったという。
お兄様を何時間も何時間も捜し回って、ついに見つからなかった。そのときかなりの放射線を浴びたはずだが、幸いに発病しなかったそうだ。 |
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昨年9月に起きたアメリカでのテロにも触れられた。
アメリカの若者は、原爆をちょっと大きな爆弾という程度にしか思っていない。テロで起きた悲しみは原爆と同じだが、大きな違いは放射線の影響だ。放射線の影響はまだ解明されておらず、隔世遺伝するとも言われている。
また周りにいろいろな差別があり、肉体だけでなく、心にも大きな影響を受け、いまなお苦しみの中で生活されている被爆者の方々がたくさんいる。
核兵器の怖さを知って欲しい。核兵器廃絶に向けて行動を起こすことこそ、もっとも大切なことだと強調される。
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濱崎先生は「長崎の証言の会」に1970年から参加され、30数年原爆の記録を集める活動を続けられている。
その中から原爆の全体像が見えてくると言われる。
「戦争は人間がつくった負の文化だよ。」という先生の言葉が心に響いている。
そしてローマ法王、パウロU世の「戦争は人間の仕業です。」という言葉を引用されて、「戦争は人間の力で止めることができる。だから僕は被爆体験を語ることで、そのことをしているのです。」と子供たちに語りかけていらっしゃった。
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「食糧」「遊び」「戦争について」「被爆直後の様子」など、子供たちは当時の子供になったつもりで、いろいろ想像して意見を言っていく。
それに答えるように濱崎先生が真実を語られる。そのギャップを子供たちはどう受け止めたのだろう?
全国から集まったというだけあって、子供たちの目は真剣で、被爆体験者の声に耳を傾け、何かを感じ取ろうとしているように思えた。
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附中時代からやりたいことは、平和教育だったそうだ。
附中を出られた後、組合に入り、平和に関する教育一筋に生きて来られた濱崎先生。
日本のみならず、ヒロシマ・ナガサキ反核訪米使節団の一員として、アメリカの3都市でも被爆講話をされたばかりだ。
21回生の恩師、濱崎均先生は、今もなお信念を持って、ご自分の意思を貫かれている。
70歳を超えてもピンと伸びた背筋、そしてゆっくり優しい語り口。平和に対する深い深い思いを、教え子として、身近に感じ得た貴重な時間だった。
(文責 中西理恵) |
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