歌は対象を立像化する  (永嶋寛延)


 週1回木曜日の午前中に時間の短歌教室、平成6年6月1日からのスタートだった。 文学にかかわる道ゆえ、この教室に顔を出して十年がたった。私の創作に進歩はない が、会員の方々の、創作意欲と対象をとらえて作品に仕上げる努力には、著しい進歩 がみられる。

短歌は、人が、人生をどう生きていくのか、どのように生きねばならないか、また 生きてきたのかという過程を、言葉を選んで表現する芸術作品ではないかと思う。  ご参加の方々はどなたも歌が好きである。自分の心眼で、尺度で対象をとらえて、 自分の言葉で表現していく。事象をとらえ、描いているものは、夫々さまざまである、 例えば、肉親への追慕、近隣者へのほのぼのとした思い、若者への気付き、戦争災禍 と人間愛、そして小動物への愛情、植物へ注ぐやさしい眼差し、移りゆく季節の変化 への思い、街頭を歩く人への寸感、社会風刺と正義、さまざまなものに対する深い感 動、ふるさとへの憧憬など、歌われている対象は多岐にわたっている。  その中に表現者の独自の個性が満ちているところに私は引かれる。キャンバスに描 いてゆく画家にも似るが、言語による具象から、対象を立像化してゆく、五・七・五・ 七・七の三十一文字による心情の表象である。

 日本古来の和歌に万葉集がある、四五○○余首の歌集の中で四二○七首が短歌、一 三○○年以上を経て、なおもこの文学形態が尊ばれ今日に至っているのは、日本人の 心情吐露にかなっているからではあるまいか。この時代には、感動の表出に和歌に頼 らざるを得なかった。叙情の方途に全力を傾注した、それも万葉がなで。長歌二六五 首のあとには反歌がある、短歌の形態で。今、改めて万葉初期の作品に接して、心情 の瑞々しい香気が、湧き出るような清冽な心情が伝わってくる。
  現代短歌の中ででも、この素朴さ、大胆さは学び得るのではないかと思う。表現の 題材は溢れる程にある、漢字やかながある、題材が豊富にある。独自の発想によって、 自由に描いてゆくことができる、豊かな時代である、創作題には恵まれているように 思う。

 教室ご参加の方々とともに、私は実に貴重な体験をさせて頂いている。相互の創作 作品鑑賞の中で、それぞれが、他の作品の優れているところを学び、己れの創作に参 考にするという姿勢が見えて嬉しいのである。自分では気付かぬところをとらえてい る他の方の見事さを認めて、そう長所を吸収しようという相互啓培・啓発の姿こそ講 座の理想ではないだろうか。

 宮柊二氏は、歌を詠む人は「作歌の徳とか作歌の価値は、作歌する人が自分で創っ てゆくべきものである(S三九年十月二十九日−新潟日報−)と語り、さらに、若い 頃に読んだ詩や歌は、そのとき、その意味をはっきり釈きつかんで読んだわけではな かった。しかし読んだとき、心がふるえかつ躍った。その詩や歌は、それから私の胸 中に住みついた今思い出そうとすれば、その時の詩や歌がはっきりよみがえってくる ・・・。遺された先人たちの業績に接し『心がふるえ、かつ躍る』ような感動を幾重 にも積み重ねることによって次第に自分の内部世界を広め、かつひろげてゆく、その ことがもっとも大切であると思う」と述べている。
  氏は、北原白秋の「多暦」創刊時の同人であり、失明後その秘書となった真摯な歌 人であった。この歌人に学ぶことの多かった昨日今日である。

   ○ほの明かりめざせし道は遠けれど澄みゆく空に星のきらめき

(二○○四年六月二十四日 記)