◇◆ 恩師は今・・・第3回 濱崎 均先生 ◆◇

長崎原爆資料館 青少年ピースフォーラム 被爆体験講話 関連記事 取材を終えて

 ハマキンこと濱崎均先生を「恩師は今・・」で紹介するのに当って、やはり先生の平和運動なしには語れないと思い、2002年8月9日(木)、あの日から57年目の日に、西浦上中学校で被爆体験講話をなさっているお姿を、林田が取材してきました。

 ちなみに先生の教職活動は、附中で始まり(40歳までご在籍)、この西浦上中で終えられた(60歳)とのこと。当時の西浦上中は校内暴力などで非常に荒れていた時代だったそうです。今回、その西浦上中に8年ぶりに戻られ、原爆祈念日に講話をすることを、感慨深げに語られていました。

 先生は全校生徒を前に、あのいつもの優しい語り口で、丁寧に、心に訴える講話をなさいました。蝉の声が響く、暑い体育館で、真剣に耳を傾けていた生徒たちの姿が 印象的でした。

 取材を終え、学校を後にしたとき、図らずもサイレンが鳴りました・・・(黙祷)
■講話の題 :
 濱崎 均先生 被爆体験講話

■日 時 :
 2002年8月9日(木) 9:30〜11:00

■会 場 :
 長崎市立西浦上小学校 体育館

■教頭先生から経歴紹介
 「長崎の証言の会」代表委員であられること、この西浦上中で教鞭をとられていたことなど。
 

(あの日)
 私は、爆心地から10km離れた香焼島で被爆した。

 「腕時計が壊れたので貸してくれないか」・・・。あの日の朝、三つ年上の兄=当時(17)=に頼まれ、私は自分のを手渡した。
 まさかあれが兄との最後の会話になろうとは・・・

 →「忘れられぬあの日〜私の被爆ノート〜」参照
 被爆体験の話は、一つとして同じ話はない。いろんな方の話を聞いて総合して「原爆」をとらえるしかない。

 原爆資料館で3つだけ触っていいものがある。ぜひ触って欲しい。
 1.原爆の瓦 2.サイダーの瓶 3.大橋の一部

 爆心地で高校生が掘り起こしたこの瓦を「瓦の声を聞いてください」と書いた手紙を添えて国連本部に送った。その意味は、この瓦の下で何が起こったのかを想像して欲しいという意味です。
 
 私たちは当時「学徒動員令」で各工場に割り当てられ、勉強をしたくてもできなかった。

 皆さんは今いくらでも勉強できる環境にあることに幸せを感じたことがありますか?

 「11:02」というのは後で決められた。長大医学部ポンペ会館の上の慰霊碑には「11:05」と刻まれている。

 当時、空襲警報が鳴ると、私たちはまず「1.眼球を押さえ」「2.耳を塞ぎ」「3.口を閉じる」ように教えられていた。
 「建物疎開」で火が止まる。

 戦争になれば、どこで死んだか分からない。分かっていればまだ幸せ。

 14歳の子どもにとっては正に「地獄図」であった。
 被爆の後遺症として、放射線の影響で汗が出ないことがある。
 「焼け野原」という表現は甘い。「野原」なんてきれいなもんじゃない。全て真っ黒。

 しかし私は悲しくもなければ涙も出なかった。そのとき人間の感情を失っていたんですね・・・

 「戦争は人間らしい感情を奪う」
 原爆を落としたB29の機長は、単に命令を全うしただけ。

 南京大虐殺はあったと思う。
 中国では「虐殺」ではなく「屠殺」という表現を使い、日本軍の残虐な写真を展示している。 
 非核三原則を守って欲しい。

 米アトランタの高校生に被爆体験を語ったとき、
 日本に原爆が落ちたことは知っていても、こんなにひどいとは思わなかったというのが多くの意見だった。

 話をしないと分からない。また言い伝えなければならない。

 平和のために何ができるのか?
 みなさんも一生懸命勉強してください。いじめや差別はいけません。


 「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」

 教皇ヨハネ・パウロ2世 広島『平和アピール』から
http://www.cbcj.catholic.jp/doc/peace/hiroshima.htm




        (文責:林田愼一郎)

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